夏和区史・翻訳版(1)目次~

(表紙裏)
同い年に生まれた方
  贓具宗冶、夏目博、小林正信
  佐籐ちとせ、
  松本まつ、松本まつの、杉本ともえ、北田こやの
  松本亮冶、和田慶●、松本昌之、佐籐寅十
  大日方定冶、中牧張吉、和田幸、松本康男
健康なうちに調べてよかった。(八十七歳)


(目次)
首言 1


(目次)


(目次)


(はがき)


(目次はがき裏)
秋冷の侯貴家族乃御盛栄の事ご秀悦申し上げ
ます さて信毎にて報導されました当森村の
観竜寺は兼務住職の長各寺にて四月二十日に
老様で喪て来てもと云話をされましたので
新役員を依頼致し会議した処皆同意
をされました 話は急速に進み六月中に道
路工事八月十一日に上棟式も終り十月十七
日千手観音外仏像へ安置しました折が有
りましたら御参り下さいます様に


(01)
首 言
昔は万物に霊魂があるとされ神仏の信仰が殊に●●
健康祈願 病気平癒 火災盗難●除に崇拝された。
お堂は集会場であり講ごとのよりば子供の遊び場であった。
文化の進展 時代の変遷により大きくかわりつヽあるが石碑石
像のように永年かわらないものもあるので昔を偲ぶ一助として
古老の言語り傍も交へて綴っておく

              昭和四十三年五月
                          松本 菊雄
                               八十才


(02)
堂ト宮ノ部
 
         夏和区史
夏和区史は小範囲ノタメ計統的に配列せず記録として
編っておく書きたしたのが重複した所もある年代の前後もある
名主年代水帳保持者ハ主題の骨子のため再錄にし基他は成可さけたのである
夏和区は小川村最東端にあり中条村と接しておる土尻川が中央と
流れ中之瀬馬枕冲沼田冲舟平冲鴨之尾北冲六反冲等ノ肥沃な
水田があり県道長野大町線が通じておる
又小春端より志神佐峯の山頂を経て鬼無里村の通じる中夏の
廣い道端があり馬をつかって物資を運搬した頃の全盛を思は
せる山林も廣面積ある
夏和村の最始はでない延享元年子ノ五月夏和村肝●
元右之門組頭庄七長百姓善右エ門の上司報告によれば東西
五百八十号南北四百八十間     志神大戸下濁沢一戸上濁沢


(03)
一戸下佐峯一戸上佐峯一戸上夏和堂と四戸下夏和四戸和田四
戸清水尻一戸三貫地一戸鴨之尾堂と十二戸大川一戸川迎
二戸(計三十九戸ト堂二)トアル
寛延三年正月書ノ地図二ヨレバ志神五戸濁沢三戸上佐峯二戸
下佐峯二戸上夏和堂ト六戸下夏和七戸清水尻一戸和田堂ト四戸
三貫地二戸鴨之尾堂ト十戸大川一戸(計四十二戸ト堂三)家ノムキ大
小モアル惣本田弐百五十二石七斗三合惣新田八十五石本新田三百三十七
石七斗三合トアル書庫蔵二枚ノ絵図アリ
吉原地籍ノ土質関係上耕地数回欠崩して松代藩兔祖願
モシタ又盗賊ノ襲来等アリ他方、分散シタ現在墓石五本アル
延享元年ノ地図ニハ二戸アル寛延地図ニハ家ガナイ欠崩し図面
ガアル
吉原耕地ハ明治二十一年現地目調査ノ際松本●三郎酒井


(04)
友吉松本伊左ェ門三名ノ所有名儀デアツテ越道村耕地山林
ヲ貸付毎年小作料ヲ徴収シテ組費ヲ充用サレタ松本栄作松本
忠吉山中伊之松氏ガ順次会計ヲ努メタ
地籍ハ
一、畑弐町四反二十五歩   此地價金弐百三十四円三十二銭
一、田壱反弐畝十八歩    此地價金十七円八十七銭
一、山林原町四丁九反七畝二十九歩   此地價金七円十七銭
合計反別七丁五反十二歩   
                 合計地價金二百五十九円三十八銭
                                以上

鴨之尾は最も早く開発された水利の便がよく又高處にも水源がある農地に適して
たのだろう又和田は開拓がおくれておったが会沢西東の土砂が数百年堆積して東側
耕地出来ただろう某氏の話に池を四尺も掘ったが岩が出なかったとの話だ


(05)
堂宮ノ部        字志神
伊勢宮趾
      場所    松本善晴氏前の高地
             鳥居形の美観の松があった
             大きな樹があり支神組の神楽を出した事もある
             現在は松本春男氏山林お宮の趾だと云はれる所がある
      祭神    天照皇大神 万延元年舟平神社に合祀

お堂
   安置仏像    火ぶせ地蔵尊   木製一体
           子安観世音    木製一体
           台にある銘記
                     願主 九州筑前国 亀之亟
                         大阪   安蔵


(06)
                       甲州     万太
                        〃     かゑ
                       施主筑前国 亀三郎
天保十四卯年四月善光寺新田町大仏師
            長谷川貫治様之作
セワ人 志神村 松本氏   元右衛門

土地名儀代表者  松本 静馬
建坪  二間 二尺半
業事  春秋の彼岸に念仏講をする
信徒  志神村


(07)
堂脇の石仏
二十三夜塔(大キイ野石)
信濃三十三番供養塔(松本静馬氏ノ祖)
お釈迦像
地蔵尊像
お宮形の石のほくら


(08)
氏神社
    祭神 天照皇大神
        秋葉大神   二社
    場所 字支神 三峯社東の山頂
        土地名儀者 松本妙(ヨシ)子(虎彦妻)
    祭日 三月廿一日
    信徒 峯組●    56546三十戸

三峯社
    祭神 武州三峯社分霊
    場所 字大林
        社地四十坪
    山林名儀人 松本武晴 松本菊雄


(09)
社木 松本樽一本 売却して消防器械購入費とし後、植林した

信徒 夏和組中

伝説
太古夏和組人口稀薄にして荒野多かりし時代狼の繁殖甚
しく金剛寺山方面より虚空蔵山方面へ群をなして往来し人畜
に危害多く住民大いに悩めり神徳により此難を除かんと部落
民相謀りその通路に当る現在の社地へ武州三峯神社より
分霊を奉斉し専ら信仰せしに霊顕著しく其後は熊
野神社大明神社と共に夏和三社の一として三組の神楽と献
納し或は角力を奉納して大いに神慮を慰め奉りたり
或時三峯本社より通信あり夏和の三峯さんがお出かけになった


(10)
何か別事があったら調べられたしとの事に村民大いに驚き御社を拝
倹するに毎年本社より送られる御玉串箱の内部夥しく噛って
あった(以上松本海学氏幼い時の話)其後ハ悪疫火災盗難
除の三枚のお札を受けて村中に領けて来り又舟平祭典の際
特に三峯社へむいて神楽の獅子を奉披して祭祀を続けたり
其後信仰の等閑になりたる時もありお社が腐朽せるに
心付き大正七年十一月●日祭事係新井幸治松本真治松本
菊雄により新調する其他中条村久保田定治氏社地寄進
等の事項書款は別冊古書款(公民館書庫)にある

狼について附記
昔は小麦の粉ひきを三田川原中尾花尾二軒に俵頼し又は
一日借りして食料用の製粉とした某日花屋の車や、行く人


(11)
が狼を見付て追い出し行くぞ行くぞと大声を上げた早朝コヤシカツギ
に出ていた中尾下市場夏和の農民が持参の天秤棒をもって
取廻いた狼は中ノ瀬から峠の下冲の田のあぜをゆっくり廻って
遂に追いつめられ田へはい込み足が沈んでどうする事も出来ず
打ち殺されたと祖父の話
昔は寺への告人を必ず二人にした送り犬と云って狼が夜中後を
つけた事があったとの話
此様な怪物も社会の進化により今は門地には住まなくなった

場所  字濁沢松本福美の墓
墓碑  陸軍二八手卒 松本歌治 明治十年六月二十一日九州田原坂ニテ戦死
     裏面ニアル宮川志條 俳人の句(凰人氏ノ祖父)
     祈ることもたゆまぬ菊の添え木かな


(12-1)
氏神社
    場所 新井弘氏宅裏ノ山
    祭神 三方公神 諏訪大神
    信徒 新井眞 新井弘 佐藤孝義
    祭日

之れを掘り出せば別事があると村人の云い伝へある
石塔形の石がある


(12-2)
字 濁 沢

お堂趾
場所  宮川凰人氏前西側の山際屋敷趾がある
     建物は舟平堂奥室になっておる

字 佐 峯

行人塚
場所  下佐峯松本徳義氏東の高地
僧が自ら穴には入り鐘のなる中は水をくれろとの遺言
之れを掘り出せば別事があると村人の云い伝へある
石塔形の石がある


(13)
石碑
   二十三夜塔
   庚申
   庚申
奉納百番供養塔     領主松本恒吉(松本長太ノ祖)
石仙像三体 弘化
石夜燈一台

場所 下佐峯十字路上の高地
信徒 下佐峯 六戸

氏神社
    祭神十二柱大神  昭和廿一年九月廿一日氏子中(石のお宮)
    注、十二人の仏様の総称ゴマをたく時掛物にかける仏


(14)
奉納摩利支天    寛永十一年(石碑)
             魔法をかける仏様だと云はれる
●   明治十三年盃秋願主講●形のある石碑
    (観世音の頭ぼん字)
信徒 下佐峯●    松本徳義 松本赤伴 松本善馬
           松本先男 松本守  松本利紀
場所 下佐峯西山高地
祭日 九月廿三日

お堂
   安置仏像 大日如来(木製)
          観世音(木製)木喰上人作仏像二体
          三代治氏代ニ色ヲツケタ
          (木喰上人ハ虫食山ドンドリ岩・・・・・・云ワレル)
          庭ニ石仏二体


(15)
建坪二号ー二号    句集奉額あり

場所 佐藤豊己氏隣
   土地名儀人 佐藤豊己
祭事 春秋彼岸中日お講をする
信徒 土佐峯中 五戸

氏神社
 祭神 白山大神 
    秋葉大神  木製二社
 場所 字塩田傍 上佐峯共有地
 信徒 上佐峯 佐藤朝恵 佐藤長喜 佐藤房伸 佐藤虎男 佐藤豊巳 五戸
 祭日 七月廿三日


(16)
氏神社
    祭神 ミガキ大神
        佐藤虎男個人ノ拝神
    場所 塩畑三角点隣

    字上夏和
秋葉社
    祭神 秋葉大神(石碑)
        天満宮(石碑)明治十八年酉年九月再建
        我頼む人をうらみてな事な良波
        あ我が下にて名残や流を舞(裏面)
    荒神 (石碑)明治六年九月 酒井艷作
        石の常夜燈一基
    場所 酒井万包家上の山


(17)
実測の結果   村中借有地4号ー5号位 柊の社木

信徒 中夏和 土夏和 13 11 二十四戸
祭日 十月廿三日  廿三夜講をする

氏神社
    祭神 国常立●
       素盛雄●    木作りの宮
    場所 村の上     代表名儀人 山中 大作
        山林 三十歩 公祖取替分毎年祭典の際仕払する
    祭日 十月一日    当番を廻して祝賀講をする
               幟をたて小供の花火をする
    信徒 上夏和     十三戸


(18)
お堂跡
場所 村の上
      代表名儀人 山中源四郎 山中惣右エ門(保一ノ祖)
僧の失火により明治四年十二月一日焼失葬送の●ナガラ大きな
ジュツ`を焼失した●●山中佐五ヱ門支神生れの坊さん(新太)
南端に円塔一基形キザミ二基墓あり 一基は新太だろう其前に女性が
                       雇って墓にうめたと思ふ
大地蔵石仏雙輪塔三基石仏一体
庭に紅の四類咲紅色のカイ●の大株あらた根分けして私方にもある

お堂趾
  場所 松本吉寿氏西上
      名儀人 酒井 友吉
   建物は舟平堂前室に移した
   祭仏は盗まれて空いていた


(19)
道祖神塚
  場所 お堂趾と同所
  石製の道祖神十数個祭る
  昔は松●の●各家へ安置してお供えをした

馬頭観世音石碑
  場所 西峯
      飼い馬の死に冥福を祈るためにたてる
  松本嘉与佐建 菊雄 明治二十一年十月二十日
  山中伊十郎建 伍郎
  山中大作建   巖
  松本茂三郎建  ●
  場所 染荷所前三叉路


(20)
  山中正信建 大正十四年六月十六日
  武田忠治建 昭和三十一年二月十七日 武姫号 三春

石仏像      明治二年巳六月廿六日
石仏像      天保  与
昔の若い衆は夜遊びに出て其石仏を抱き上げる等力だめしをした
                         (松本栄七氏の話)

氏神社
  祭神 木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)命 冨士浅間神社(石宮)
  松本菊雄個人の拝神 家北隅

みちおしえ観世音石仏
  場所 塩畑十字路 俗称下四ツ池
  左善光寺 右新町 文政五年午六月吉日


(21)

松本菊雄第十代目祖先与惣兵●秩父三十四番霊場巡り祈願

水神碑
  場所 水道貯水池ウラノ山
      大正十五年(寛成ノ時)上夏和十二戸
                     山中●  山中英男 松本菊雄 山中松直
                     山中博士 松本茂三郎 松本吉孝 
                     山中● ●  武田忠治 ●●
                     ●●      酒井四郎 ●●


(22)

字中夏和

神明社
  祭神 天照皇大神 神明大神  お宮二個 御神体に神名がないが幟にある
  場所 村の東方
  土地名儀人 滝沢作右エ門
           社庭八坪●附属畑六十歩位貸地して収入を上げる
  祭日 四月一日山林
     毎月廿日当番をたてヽ神明講をする
  信徒 中夏和中 十一戸

石碑
  二十三夜塔 小川銃貫筆


(23)

庚申 酒井新五兵衛筆
道祖神塚 石の道祖神数個祭ってある
百番供養塔 文化七年  角佐ェ門松本伸忠ノ祖
         同 郎
念仏供養塔 天保四年巳年
仏像一体(三重台)
場所 松本建男氏前
土地名儀人 松林源内 正一

筆塚用巨石 三個
   酒井新五兵衛氏が師匠小川統貫のために集めたが成功せず
   其まヽになって居る
場所
   前記と同所美ごとな桜の木があった今は三代目幼木になって居る


(24)

大明神趾
  祭神 建御名方命
      万延元年 舟平神社へ合祀
  場所 元焼場の上 和田から上神楽組共有地
      西條小一郎氏に売却して山林とした
      お宮があり大藤があったはじの上に小さい祠があった

馬頭観世音碑  松本信吉建  同氏庭前

大門屋敷趾
  場所 神明宮道下 小川氏所有畑の隅に飲水所あり
  朝火事で出した仏像は舟平お堂にある

氏神社
  祭神 十二天臼
  場所 小川徳治氏庭前  戸人ノ拝神


(25)
字和田

日蓮石碑
  南無妙法蓮華経 明治十九戌年十月 松本友吉(松本周助方ノ人)
  場所 松本誉氏家東(やすえ)

お堂
  祭仏地蔵尊二体
  地蔵尊裏の銘 花翁源燈居士之位享保七壬申年五月十九日
            空顔利長大姉淑靈正徳六年五月二日
松本勇喜氏祖先の奇願と云はれ所蔵位牌と同文
おまんだら掛物二幅ジュヅと鐘を蔵し三月十五日にかける
庭前に大地蔵石仏ある  右 弥治右ェ門 
            左 姉二テ尼トナリ獨身デアツタ人
土地名儀人 松本勇喜


(26)
  建物坪数奥行二尺半間口二間附属建物あり
  毎年御彼岸の中日に村中の婦人が集り念仏講をする
  現在は村中で利用修理する

石碑
  二十三夜塔 文政八己酉年四月吉日
  石仏像一体
  三角形石塔一体 文字不明
  場所 元松本武晴氏宅前

田島社趾
  祭神 鹿島大神
     戸隠大神


(27)

     万延以前ニ舟平神社ニ合祀
  場所 沼田 県道両側の高地
      昔は賑な祭典をやり引燈篭も出した事もある(カジヤ繁吉氏談)
      見事な木の桜も失った

琴平社
  祭神  琴平大神
      秋葉大神
      木製の宮ニ社大きい石の上に安置してある
  社庭二十坪佐石の常夜燈 栂モミ二本の社木あり
  土地名儀人 太田貢
  場所 こまり山頂
  信徒 和田、中、上村四十二戸 幟をたて燈籠を上げ神楽を
  出した
  


(28)
氏神社
  祭神 八幡宮
  場所 松本虎雄氏裏の山頂
  土地名儀人 松本勇喜
  信徒 松本勇喜 松本誉 松本史 松本仁栄
     松本虎雄 松本渉      六戸
  祭日 四月四日

氏神社
  祭神 十二天白尊
  場所 松本敏幸氏裏山 土地名儀者 松本長之助


(29)
   信徒 松本尊明 松本徳治郎 松本兵重 松本一栄
      松本清信 松本敏幸 太田貢 大田久男
      和田幸 和田邦茂 中牧誉喜 中牧磯吾
      松本武晴   十三戸
      社木で収入を得て貯金して居る

道祖神碑
      庚申(石碑)天治二年乙●四月
      庚申(石碑)
      石仏像(大きい)
      石仏像(三重台)西国
  場所 和田邦茂氏宅脇の高地


(30)
庚申碑
  猿田彦尊 大正九年庚申歳和田村廿五戸
  庚申  十二月一日 松本善治筆
  笠のある角石碑
  馬頭観世音
  場所 和田邦茂氏宅前


(31)
お堂趾
  祭仏 観世音と釈迦像
  場所 旧屋敷山際にあった個人の尊仏松本尊明氏
      宅地の移転により取りこわし仏像を保管して拝香しておる

氏神社(天白ハ倭民族以前の土着民族ノ儀仰シタ神ダト話ガアル)
  祭神 オ天白尊(石ノオ宮)
  場所 字沢入り山頂 両家ノ境ノ所
  信徒 松本伸忠 松本哲
  祭日 四月三日


(31-1)
お堂趾
  祭仏 観世音と釈迦像
  場所 旧屋敷山際にあった個人の尊仏松本尊明氏
      宅地の移転により取りこわし仏像を保管して拝香しておる

お天白趾
  場所 公民館旧支神道路の道上
      大きな樹の切り株も今はない
      中村分と思はれ松本実治 松本伸忠 松本しげ
      松本健男諸氏の畑がある


(32)
舟平神社趾
  祭神  鹿島大神 沼田道上 戸隠大神 天照皇大神(支神伊勢宮)
       伊那奈美命の合祀 建御名方●(夏和前半)
  場所  舟平台地
       耕地ノ分大字高府字舟平二、九一0ノ二畑八畝十二歩地價金十三円四十四銭
       社庭一反歩餘平坦な庭の南側に高さ二尺程の二た也叉あり
       其上に間口二号奥行九尺の社殿が庭むきにあり裏は川の崖
       に面してあった
  信徒  夏和組中  凡百戸
  祭日  九月廿日 鳥居に改廻される迄存在した
       大鳥居をたては八幡社に移し現在の西山農協の前方の第一鳥居とした昭和二十一
       年十月石造色幕く掲げ神楽三頭引燈篭を出し
       沿道、百ヶの角燈篭をたて大きな舞台が南側にあり芝居
       もやった


(33)
変遷内務省の神社合併布告により八幡社へ還した明治四十一年八月二十日
社地及附属地共有地は現地日の際酒井友吉氏名儀にて毎年
組会計より公租其他の取替分を支払ふ
大正三年青年会が借りて始めて畑となし水容ヲ桃の栽培をなし
成果する頃になって盗まれて経営成立たず部落は松本幸佑
佐藤義則に分割小作貸をなし後に農地開放となった

蚕神様
観世音堂 観世音菩薩
仏像 大日如来 阿弥陀如来 薬師如来
信徒 夏和組中 祭事係が担当する
祭日 八十八夜
    金剛寺住職により説摩をたきお礼を全戸-


(33-2)
変遷内務省の神社合併布告により八幡社へ還した明治四十一年八月二十日
社地及附属地共有地は現地日の際酒井友吉氏名儀にて毎年
組会計より公租其他の取替分を支払ふ
大正三年青年会が借りて始めて畑となし水容ヲ桃の栽培をなし
成果する頃になって盗まれて経営成立たず部落は松本幸佑
佐藤義則に分割小作貸をなし後に農地開放となった

前室は神夏和西峯より運び九尺弐分
堂は奥室は濁沢より運び
原山勝義氏奉款(昭和五十年)

信徒 夏和組中  祭事係が担当する
祭日 八十八夜
金剛寺住職により説摩をたき御礼を全戸


(34)
に領ち蚕業安定のため参拝者も多く福引をやった事もある(とうじ一等賞ハ文一匁

  場所 大字高府字舟平二、九一0ノ一宅地二十歩地價金一円三十銭
      舟平台地西側 堂裏は九尺程の高い山になって中腹に
      墓に円塔二基外ニ二基ある文字は判別しない
      川に面して共有山林がある
      堂庭に松の老大樹がある一米側の周囲六尺五寸枝下三間

石仏像
  大きな石仏一体  個人の拝仏 祖先が安産奇願に立てたと話を聞いてある
  場所 舟平地籍 太田充信氏宅地西側栂の下にあって移転した
  台石の銘 具一切功徳 福聚海無量
       慈眼視衆生 是故應頂禮


(35)
舟平台地
大昔川が支神下へ廻ツテ居タ頃片岡ノ大の●ガアリ川ヲ止メテ上ノ方ヘ淀
ンダ其時最モウスイ所ヲ堀割ッタ水ヲ通シ其後元ノ様トシタイト話が
出タガ三貫地ノ方が反対シテ出来ナカツタ堀割後モ川瀬ガ狭イノデ元ノ
川瀬ヘ洪水ノ時ハ水ガ廻リ数面ニテ返シテ止メテツヨク出来テ今ノ様ニナ
ツタト古老ノ話
往時寺ガアリ三願寺ト称シタ金剛寺史松本薜氏暑ニアル寺前ノ
石碑ニハ夏和古堂トアル墓石円塔二基平型二基カラ判断シテ二世ノ
住職ガアリ三世ガ植科郡森村観竜寺ハ轉住シタト思ハレル
現在ノナイ寺管理者ハ更植市森地区小林忠一氏デアル
森村古文書ヲミレバ観竜寺ハ観世音堂ノ別当ニテ洗崎山阿弥陀観
竜ナリ堂ハ森村北清水堂(地名)ノ大火ノ折焼失シタトアリ夏和ヨリ移
シタ記念物モ焼失シタト思ハレル現在円塔二基平型二基内一基


(36)
ハ形物ガ乱レテアル文字ハ判明シナイ前ノ堂場所前ノ来道ノ敷石ヲシ
モノガ並ベテアル夏和姐名義小根山村高府村戸長役場書類ニヨレバ全域一筆ノ
宅地デアリ後分筆シテ山林、宅地トシ更ニ開放ニヨリ分筆シテ佐藤義
則松本幸佑所有トナル現在ハ今昔物語ニアル上村分中村分和田分
ハ個所有ニナッテアル
昭和四十四年秋県道改修、第一期工事トシテ松本渉氏田ヲ買収シテ
堂ノ移轉ガ行ハレタ
森村観竜寺の現状 観世音は信濃三十三番ノ内第六番札所建物は
お堂間口三分半奥行六分日天門一岐蔵庫間口二分奥行三分土蔵造
別当観竜寺ハ焼失してない代理住職更埴市塩崎長谷長谷寺住
職ガ兼製建物及財産は小林忠一氏管理しておる


(36-1)
旧年中如何と毎忙の為今日に至りました事御わび申
上げます 今年もよい年を御迎ひなされた事御悦んで
申し上げますさて当地区に有ます観世音ハ信濃三十三番
の内第六番にて現在の建物ハ
    日天門 一 お堂間口三間半奥行六間
    の建物及び収蔵庫間口二間奥行三間の
    土蔵造で有ます
別●寺観竜寺か寺ハ火災にて有ませんが現在ハ住職ハ長
野市塩崎長谷の長谷寺の住職が兼務致して居ります
建物及び財産ハ私しが管理至して居ります


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博説

松本吉之助氏編今昔物語後編によれば「舟平の名称は近
世に至り名づけられたものヽ如く昔時の称を詳にせず堀切西口
を指して清水●向ふと云ひしをば同所も亦同字たりしならべく現
今の称呼は堀切以後と思はる実に舟平は其名の示す如く
  

    観竜寺
    文字妙優    更埴市森二六五0
     (京都生れ女の方)

甫めて成功せり時天保中旬なり丘陵の平地は即ち寺院
のありし処なるべし明治初年此持主は上村分中村分和田分
ありて而して持分は五人持ち或は四人持ち各共有地たり是れ

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