夏和区史・翻訳版(4)

(102)
犀川岩倉ノタケノタメ犀川モトマリ又伊折ノ白ガケノ下ノ集落ハ一ト村土
中ニ埋リ鳴声ガ聞ヘタ
今泉ノ高イ峯デ見レバ火事ハ数ヘキレナイ程デアツタ


(103)
順路は上夏和集落を下り中夏和松本建男氏前を入り西条氏
前から村道へ出てカヂヤ小坂の傍を通って和田部落を経て和田邦
茂氏傍から県道へ出る三〆池を過る頃は女子供は男子供に旗
を渡し少なくなる六反の大野村との境に捨ててにげ返る
大正時代になり子供に御供として菓子を配り当番に糊代の御礼も
した
花尾組は旗の外に男女の藁人形を作り藁馬にのせて送り夏和
との境界外山に捨てた 外石は又別にやった
高府町組は旗を一本自家で作り一銭の菓子代を添へて店頭に出し
太鼓をたたいて谷山ノ下の夏和境界に送りとどけた
太平洋戦争になって消滅した


(104)
     旧火葬場
地所永久買渡證(写)
上水内郡高府村弐千四百十四番地
    字沼田道上   上水内郡高府村
一 原野或畝⚫️弐歩   地主 松本吉郎右エ門
    地價金 五銭
    地租金 壱厘
    ⚫️買渡地代金八円弐拾銭
右地⚫️⚫️⚫️組合一統協議協議ニ上貴⚫️外七拾弐人、永久買渡
シ地代金正ニ請取仕リ候候⚫️相違宅之候依而和田上夏和
三貫地鴨之尾と各組共有火葬場トシテ永久⚫️⚫️持可ヒ成候
就テハ此賣却ノ件ニ付更ニ不都合等⚫️之⚫️若シ何等等故障申
者有之小節ハ保護之者何方迄モ罷出到度瞭ヘ取計貴


(105)
殿方ニ聊モ御迷惑等相係申間敷地⚫️賣渡證書如件
     上水内郡高府村
     賣渡人 松本吉郎右エ門
     保護人 松本三治

上水内郡高府村 惣代人
     松本⚫️三郎殿
       外七拾弐人御中

第十二号
前訳ノ通リ相違⚫️之奥印候也
   明治十八年四月十九日
     上水内郡高府村小根山村戸長 川又


(106)
前期古書ハ松本三郎治氏衛生係トシテ郡ノ辞令ヲ受ケテアリ
保管シタモノデ松本史氏所蔵スル
     私ノ考察
昔ハ全部土蔵デアッタ明治十五年頃保健衛生上火葬ニスルスル様
指示サレタコレニ基キ夏和沼田道上地籍ニ山部ハ鬼無里線濁沢
地籍道ノ東側墓地ノ隣(地主新井眞)ニ決定シタ
夏和焼場ハ主ニ和田カラ上ノ夏和組ニテ経営シ中央ニ溝ヲ作リ
石ヲ積ミ太イ鉄棒ヲナラベテ死体ノ落チ込マナイ装置ニシ祭場ノ
周囲ニ⚫️ノ生ガキを作り通路ノ補修等モシタ
夏和神楽組ニハ会計係が選任サレテアリ小ハ琴平社ノ⚫️燭代ヨリ
上中夏和ノ秋場所ノ燈篭紙代等大ハ太鼓ノ購入ハリ替ヘ引燈篭
大八車ノヤキ入レ前宝蔵倉「土蔵作り白カベ楽域貝等共同品置場松本
甚作請負竣ユ」等ノ祭費一切支払ヲシタ収入ハ沼田社地道路用地両方ノ畑地


(107)
南ハ松本虎三郎北ハ酒井友吉ノ畑ノ払下大明神社趾⚫️西条小市郎ヘ扣下
ノ等ノ資金ノ運用モシタ私ノ次ニ小川一儀氏が選任サレ資金ガ皆毛
ニナツタノデ解任サレ祭事係ガ担当スルコトニナッタ前記土地代金ニ付与記錄
ハナイガ之レニ関係ガアルモノト思フ

大字高府ニ,四一五番 字沼田道上
 面積 吉畝歩     和田織三郎名儀 和田武
    斃獣埋焼場   賣買証書アリ
 面積 吉畝歩
 大字高府三,〇六五番地 字大林松本常右エ門名儀(松本渉) 


(108)
     松本秀之亟氏     上水内郡誌ニヨル
享和享和ニ壬年上水内郡竹生村(現南小川村高府)に生まる
家代々庄屋を努め秀之亟庄屋に就任せる年月は不明なるも
文政八乙酉年八月前代伊惣治殁後廿四歳で世襲せるもの〃
如くである秀之亟の庄屋として功績大なるものは土尻川堀切である
県道水内小川線が南小川村夏和地籍で県道大町街道に接続
せんとする所土尻川に雲井橋と称する現代的鉄筋コンクリート橋梁
がある此所が堀切と呼ばれ文政天保の頃開⚫️されたのである
この地峡を堀割って川水を通ずるには幾年月幾千人の人夫を
要せしものなるか不詳なるも現在両岸の絶壁に露る〃岩石の状況
により某工事の如何に容易ならざらしかを雄辨に物語ってある即ち
この地峡の岩盤は第三期小川層上部に属し⚫️岩砂岩及び礫岩
の呉層で岩負は極めて固い


(109)
昭和十七年から十八年に亘ってこの地籍土尻川南岸に用水路と
して⚫️道約七間が開墾されたが岩石が固くて其工事容易で
なく一日一尺も進み得ず請負人二人逹も工事中途にして断
念放棄し三人目に漸くにして貫通せる事実に微するも其
往時の苦心が想像される而かも当時の堀切は長さ六十間深さ
十五間に及んだのであるから其難工事たることが推察される
秀之亟性英俊にして剛毅学徳あり庄屋として松代藩の
信頼篤くこの工事の世話係を命ぜらる村人と藩の中間にたち
この大事業遂に完成の日夜奔走挺身努力し其財産の殆んど
全部を失った現に「伊惣畑」といふ田畑各所に多しこれ父祖の
遺産を賣却して献身努力せる事を物語るものである
然るに其業末だ成らっざるに天保七年三十二才にて発狂し後
に痴呆となる秀之亟の活動はこの時終正為したのである


(110)
雨後遂に快復せず明治十三年七十九才を以て没する迄書記す
るところ常に堀切世話係のことのみであったといふ
其後工事が竣工したが秀之亟は其竣工の盛儀にも来加するを
得ず痴呆にて徒食し居りしも其工事に昼瘁せる功績により
舟平地籍たる水上に十俵取四百坪の田を賜ひて其功績を賞
せられ現在その子孫たる松本史氏が其⚫️徳に俗しておる
                         終
酒井倉吉(五〇、死亡)吉原きみ若くして寡婦となり松代藩より出張せる
役人称津友盛⚫️代り人が
和日松本史方へ止宿しておる處へお茶番にも行ったとの説あり


(110-1)
王夢間志文略年譜     圭月志丈丈ことどもヨリ
天保五年小川村(当時夏和村)十一番戸宮川米蔵長男として天保五
年七月七日出生名は喜作天保弘化の年間にどのようにして教養
を身につけたるか一切不明   弘化四年大地震あり一旬餘にわたり
余震止まず道を歩行する事思ふ侭にならざらしといふこの時喜
作十四才     嘉永四年喜作十八才更級庵静一の門に入り
志文と号す    安政ニ年静一より玉夢館と云ふ庵号を貰ふ
静一は更級郡塩崎村の俳人通称国五郎文政大年生れ慶
応三年殁姨捨長楽寺に句碑あり寶客にいざ月を鳴け時烏
元治ニ年志文三十一才近隣の小童を集め自宅二階にて寺子屋
式教室をはじめるこの教室は明治五年学割発布の頃迄続け
たらしい児童等は各自が子守をしながらの手習であり子守教室


(111)
であった    明治六年志文四十才稲荷山に於て俳号の披露を
なす会者先輩五十余名
この頃米一升五銭新聞一部五銭一ヶ月講読料五十銭地方の人
は東京みやげに新聞をかってきた
明治十四年志文四十六才風来俳人(通称乙食井月)飄然として
風の如く来訪あり志文圭月の住居を往復して数日滞在
⚫️辞去何処、行きしか不明明治十三年頃長野市から当地方に
入り山本亀遊(山本剛の祖父)戸田頼治方に長らく滞在志文
を訪ねたこの時志文に書き残した一句
     世のさまは葉にすてられて梅もどき
井月は文政五年生れ新潟県長岡の産漂泊の俳人として有名
明治二十年伊那に歿した
明治十六年この年頃から二十五年頃の間に来訪または滞在したる俳人


(112)
次の如し 半仙 茂雄 対山 雪畝 月人 逸野 智一 鶯琴
ト城 梅里 松保
明治三十ニ年九月二十七日病死六十六才法名玉夢館志文居士といふ
明治三十四年圭月志文物故の翌々日追悼録「手向ぐき」出版
さる この小冊子には松本渓雲筆になる圭月志文の肖像画
あり五百秋千稲と浅井洌の追悼文がのっている追悼句をよせし人
対山以下三百二十餘名追悼歌と漢詩を寄せし人高山勝雄
以下十五名その弔歌次し如し
     西東ゆきわかれても玉鉾の道の上照らす月の影かな
                            終


(113)
夏和区出身活躍活躍セラレタ方々 失シモ故人前職

宮川太一  議員  上水内郡会員
酒井荒三郎 教育者 七二会小学校長
酒井四郎   々  柵小学校長
山中捨松  吏⚫️  下高井蚕病予防事務所長
松本重忠  警察官 佐久警察署長
小出亥吉  公吏  長野県地方課嘱
松本英雄   々  埼玉県商工課長
松本藤太  教育者 高府小学校長
山中熊亥  事業家 東京相模製紙社長
松本智観   々  山梨塩山製紙社長山梨塩山信会理事長在命
山中三十四 公吏  青森県津軽郡地方事務所長
西条小市郎 事業家 土地調査師 現地見


(114)
中牧宗玄   事業家
中牧周斉   醫師
松本幸佐   立服家 剣道五段 日露戦争乃木軍感状戦 功六級 金⚫️勲章 存命
山中正信   事業家 岐阜市水車小屋社長
太田貢    鳥尾小学校長 教育者
松本靜男   公吏  南小川村長 大岡村牧田中の生れ 幼名万重郎
松本武晴   公吏  南小川村長                  在命
松本金治   ⚫️家
松本薜    教育者 川向地籍に⚫️徳碑アリ
松本忠太   軍人  海軍大尉                   存命
大久保誓   獣医  元長野県畜産課長                〃
松本史    教育者 元北小川小学校長 小川村教育長 勲五等双光旭日賞 〃
山中巌    軍人  海軍大尉


(115)
      道路網
善光寺街道(駄道)
一ノ口小春橋ヨリ支新辛原ヲ通リ三〆池ヘ下リ和田道祖神ヨリ上夏和ヲ経テ
中尾橋二至ル
新県道長野大町線明治二十一年開通
一ノ口小春橋ヨリ川迎三〆地清水尻馬坑ヨリ新田橋二至ル
昭和四十五年一部改修
三〆地舟平清水尻沼田間
県道水内線
鴨之尾橋ヨリ大川下ヲ通リ急傾斜二上リスナラ口二至ル
昭和十年改修雲井橋ヲ作リ鴨之尾集落ノ上ヲ迂回シテスナラ口二至ル
村道鬼無里線志神ヨリ佐峯上ノ峯ヲ通リ外石二向フ
日里線清水尻ヨリ上夏和下四ツ地ヨリ外山花尾伊折方面


(116)
村道支神線公会堂裏ヨリ大林山林ヲ廻り沢ヲ渡リ支神二至ル
昭和三十五年改修公会堂傍ヨリ東片岡ヲ経テ日十万道支神二至ル
濁沢線三〆地ヨリ支神原ヲ経テ濁沢二至ル
改修シテ支神線ヨリ分岐スル
佐峯線上夏和ヨリ会沢ヲ経テ急二峯ヘ上ル
改修シテ和田ヨリ峯二至ル
大川線土橋向フ 改修シテ勾配ヲトリ集落二至ル


(117)
漬地号附願
今般県道高府街道御改修ニ付拙者所有地所左表ノ
通り漬地ト相成候ノ就テハ●公益補賛ノ意ヲ以テ漬地寄
附仕度候間御採用被下度此殷奉願候
   明治廿六年四月五日  上水内郡南小川村
            願人    村長新井忠之助   印
                   願人           印
長野県知事浅田徳則殿
     補償料
移植料   桑一株 五銭
        椿一株 一銭


(118)
     勤倹節約
大正八年 区ノ協定   組総代 酒井荒三郎
年始年末ノ行事ノ制限 産後見舞旅行帰り葬儀等細部ニ
渡リ規制シタ(節約表略ス) 主ナルモノニ酒席ノ献酬ヲ廃スがんぶた
ヲ廃シ告別式ニスル等

昭和二十年郡ノ指導ニヨリ村主体ノ行事
結婚式ノ簡素化料理ノ制限よめ衣料ノ制限等ヨリ
監視員トシテ夏和区ハ方面委員大田貢ナリ


(120)
農業構造ノ改変
夏蚕ノ飼育
小麦ノ収穫期ニハ降雨ガ多ク品質ノ低下ガ度々アルノデ夏蚕ノ飼
育ニヨリ収入ヲ得ル事ヲ松本保典ガ着眼シニ播種ヲ全廃シタ
温熱費モ不要酷暑ノ前ノタメ経過モ順調デ数年ニシテ地方ニ普及
シ専用桑園ヲ造成シタ

昭和四十年松本千鶴県養聯ノ依託ニヨリ養蚕●記ノ記帳ヲ
始メタ春夏秋蚕バカリデナリ桑園ノ調査モアルノデ一年中ノ仕事ガ三ヶ年
継続シテ行ヒ県大会ヲ経テ婦人部青年部全国大会ニ体験発表ヲシタ
農林省全国養蚕農業協同組合主催第十二回全国蚕業養蚕
婦人体験発表ニ於て優秀ト認メラレタノデコレヲ賞スル
 昭和四十三年三月三十一日 農林省蚕糸局長 池田俊也


(121)
     弘化ノ地震
弘化四年旧三月廿四日大地震アリ一時ニ戸ガハズレ爐辺横庇デ
麻ヲウンデ居タ曽祖母ガイロリヲ越シテミズヤニナゲラレタトノ話ダカラ震動大ガ如何ニ強カツタカ察スル其晩松本六兵栄方デ子供ガ死ニ集ッテ
居リ自宅ヘカヘル際道ガ井戸水ヤタメノ水デ洪水トナナッテ居ッタ
ソノ時夏和裏山大崩壊シ土尻川ガ深ク廻ツテ居ッタノデ下ヘツキ込ミ中ノ瀬
ノ麦ノ畝ガ四尺ニモナッタ(普通ハ尺八寸)
山中翠ノ奥ニアツタ山中源七ノ家が土砂ト共ニ神明堂地籍ヘオシ出シ
母ト子守ノ二人ガ助ケヲ求メタノデ十八才ノ血気盛リノ惣九郎権兵栄ノ二人
ガ馬杭カラ中ノ瀬ヲ廻ツテ蝋燭二本タイテ助ケタ
餘震長ク続キ夏和ハ前平各集落ハ獏寄ノ安全地ニ避難シ日
ガ暮レレバ夜ハツユシノギノタメ家ニカヘリ毎日〃クリ返シタ
夏和裏山ハ長サ百閒ニワタル大タケデ奥ノ方ノ衆ハ後ニ見ニキタ


(123)
     木食山居上人ノ仏像
昭和四十年五月私ノ調査ノ件案内シテクレタ佐藤景己氏ハ上人ハ
●倉山ドントリ岩ニテ修道セラレタト祖父カラ聞イタト話サレタ 源重郎ー
(佐藤長五郎ー三代治ー豊己ー房伸)長五郎氏ハ仏教ノ熱心家
デオ堂ニハ奉額ト庭ノ野仏像二ケアリ完備シテオル
上人作ノ仏像ノ入手ノ経路ハワカラナイガ交流ノアッタダロウト感案スル
豊己氏ニ●防備ノヲ堂ニ安置シテアツテハ心配ダカラ舟平ノ観音堂
ニウツシテクレト頼ンダラ承知シテクレタガ実行スル前ニ氏ハ他界シタ
●毎ノ切リヌキヲ以ッテ説明トスル


(124)

こんにやく玉の生産
昔より自然生と称して日当たりよき傾斜地汐質地に生
育して食料の補助品として作られた
社会情勢のにて食料の変化により製品の需要が増し
其影響により生玉の相場が上り反当最大の収入になった
そのため生産農家が増加し夏和区にて三百俵餘(十〆入)
の出荷になり南小川農協にて千俵餘の出荷があった
昭和九年生産組合を作り組合長大西健吾副松本
保典にて各区に役員を置き技術負米倉竹沼により発足し
試験畑を設けて被覆試験肥料試験等もした。
長野県聯合会長は中原信吉氏(伊那市)にて津和農協南
小川農協が北信の主産地にて千曲こんにゃくの声價を高め伊那
産地とも提携して増産につとめる品評会を開き視界を廣めた


(125)
県経済連は企画を定め量目を指示し検査制度とし東京と
大阪に出張所を設けて相場の変動に備へた
県費補助により南小川農協に電熱貯蔵庫の五棟割当が
あり内夏和区に二棟が完成し津和農協は県費補助により
荒粉の生産工場が完成した
昭和四十二年全国の生産地群馬県下仁田の製粉業者の
悪質脱税により税務所の手入を受け多額の追徴金を徴
収されたそのため翌年の生玉買入に大影響を来した
種玉貯蔵の困難と同地畑に五ヶ年以上作ると連作障害を
受ける等の不利条件もあって発展は中休みになった
而し養蚕と稲作との労働関係大小豆の不利等から継続
して経営する農家もある
堀取器の発達もあり堅実なる農業として発展しておる


(126)
     農業の変遷
大正十五年頃早害を防ぐため沼田冲に電力による上犀川より
水を掲げ沼田東西清水尾南三〆地冲に灌水する工事があった
昭和四十年頃太平洋戦争が激しくなり壮年男子は大かた召集
され物資は欠乏して衣料其他生活品が配給制になり殊に食料
の欠乏が甚だしく農家は自作反別により裸供出となり都会のもの
は食料としてりんご馬鈴薯の配給もありお百姓さんありがとうの声を
きくようになった 学徒は勤労奉仕に出征家に労働にきてくれ師範
中条高校小学校の生徒の助力に釆加せられた
上司の指示により高府水利組合が生れた 中尾下市場夏和中之瀬
馬杭峠ノ下大明神西の水田開発旧田の灌水である中尾下市場
夏和和田の農家六十戸耕地面積八町三反歩である 中尾橋より
電力により水を掲げ殆ど桑園であった畑を平にするブルドーザーも


(126-1)
ないのだからモッコにより南小川村内の女子勤労奉仕隊も釆加してくれ
耕地の分合整理もした昭和十九年七月完成し馬杭ハ記念碑を
建てた数年は乾田なので麦や菜種の栽培もした水の需料により
等級をつけ電力料金の徴収し二人の水利係をおき日当番制
にて灌水の均テンを計り食料増産に行献した其後鴨之尾北
六反冲の水渇も完成した
現在は過剰米に悩まされ昭和四十六年休耕田を奨励される様に
なった 昭和四十九年休耕田廃止


(127)
     金剛寺の御釈迦様について 
朝日さす夕日輝くスズメ里に棒千●黄金千●朱千●を●す
と夢枕に悟されたと云ふお話は中年以上の方はどなたにも年寄りから口
傅へに聞いて居られる事で御座います 木の根にはさまってあり駅の丸い仏像を
見付ければわかるとの予言者あり 霊玖の信仰信者
昔は林産資源として他にない棒と黄金の事肥沃な土地だから
生業にしたしめとの意か或いはその様な貴重品がどこかに埋められて
居るのか又あの大きな仏像を安置されたお堂はどこにあったのか昔は
支神濁沢佐峯上夏和二ヶ所和田鴨之尾にあったので何か関係が
あったのかその様な大昔の事は後の世の方々の研究に待つ事といたします
さて金剛寺は天文五年三月廿四日小川香坂の合戦に兵火に羅り
仏像を焼失してしまった その後夏和村の古堂にありました共に
運慶の作の仏像を移した事が寺内の石碑古書類にもあり
まして夏和村の古老の申し傅くと一致して居ります 毎年ヤショ


(128)
ウマには夏和方より来拝者が絶たない程で御座いますが故ある
事と思はれます
その金剛寺は明治三十九年四月廿一日夜不慮の災火にかかり
庫裡本堂釈迦堂共焼失いたしました その晩早や鐘に知ら
されて馳せつける夏和の方々は皆が何よりも先にお釈迦様
からだとの気持で馳せつけたが事既に遅く火煙の寸前であり
ましたが夏和の方々は身を挺してとび込んで遂に引き出した
その時の眞相を上中尾の新井竹作様下市場の北田大作様
から実に危険な事をやられた夏和の方はそらと云ふ時は気が揃
らのに驚いたと話を聞きました
其後本堂の再建については信徒として特別なる御援助を戴
き又過年屋根葺替にも亜銘板一枚以上の御寄附を下され
順次御陰を以て整備して集りました 只今尤も熱望して


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