(37)
傅説
松本吉之助氏編今昔物語後編によれば「舟平の名称は近
世に至り名づけられたものヽ如く昔待の称を詳にせず堀切西口
を指して清水尻向ふと云ひしをば同所も亦同字たりしならべく現
今の称呼は堀切以後と思はる実に舟平は其名の示す如く
三面懸崕一面狭長にして緩斜なり囲むところの田面を
水と見れば正に船舶の観あり昔待堀切のまだあらざる頃土
尻川西より来りて山脚に沿ふて北に流れ片岡を湾流し三貫地
脇を鴨之尾居村裏に衝突して餘勢沢尻に来たるを侍
の人河身に開墾を企て一面二面共に失敗に陥り三面にして
甫めて成功せり時天保中旬なり丘陵の平地は即ち寺院
のありし処なるべし明治初年此持主は上村分中村分和田分
ありて而して持分は五人持ち或は四人持ち各共有地たり是れ
(38)
廃寺の節分割若しくは買収せしものならん歳移り星替り今日は
文書の徴すべきなく只口碑に依って僅かに其談をのこすのみ(中略)
後舟平神社々号許可された許可願書は何れにあるか心当りを探
せるも未だ発見せず祭日三月二十八日九月十八日なりしを改めて四月三日
九月十八日と改定せり埴科郡森村某寺は夏和より移りしもの
にして記念物もありとの説同村民の語るところ実地調査せば得る
ところあるべし後人のために記す」
(39)
字三〆池
石碑
二十三夜塔
猿田彦大神 大正九年
奉納百番四国供養 天保四年亥巳歳四月吉日
場所 原山勝義氏北側旧大町街道支神原上り口
字鴨之尾
秋葉神社趾
祭神 秋葉大神
信徒 鴨之尾組中 二十戸
昔は神楽を出し花火を上げ盛大な祭典をやった
布告により八幡宮に合祀した社地は松本幸好氏所有
(40)
となるお宮の屋敷趾はある
お堂
祭仏 地蔵尊二体
小形仏像二体 ●常にいたんで居る
場所 村はづれ 大川道路傍
川瀬のため二面移転した
信徒 鴨之尾中 十三戸
祭日 三月四日 お講をする
堂屋敷名儀 松本近好
間口九尺奥行二分トタン葺
氏神社 松本滋男氏宅地内 個人の拝神
(41)
石碑石仏
場所 お堂の隣り池
六地蔵尊
仏像一体
二十三夜塔
庚申
石仏像
馬頭観世音
奉納百番供養塔 天保
(松本滝登氏ノ祖)
行事 各家ヲ廻ッテ廿三夜講ヲスル
(42)
熊野権現趾
祭神 伊那奈美命 万延元年舟平神社に合祀
熊野権現 布告により八幡社に合祀
場所 字熊野
社地は松本武平氏所有となり畑の頭に石一個をたてて拝
神して居る
本家竹村光輝の話分家竹村伊久治氏デシマイ込ンデ出●イ」
吉原
昭和五十年一月調査シタルニ橋場ニハ亦村姓ガナイ安用ニ
竹村博 竹村義高 竹村一 竹村広子
ノ四戸アリ橋場ハ大学名デアルカ或は移動シタモノカ不明ナリ
(42-2)
熊野権現趾
祭神 伊那奈美命 万延元年舟平神社に合祀
熊野権現 布告により八幡社に合祀
場所 字熊野
社地は松本武平氏所有となり畑の頭に石一個をたてて拝
神して居る
吉原二軒の移転
耕地数面欠崩して松代藩ヘ兔祖願もした又盗賊の襲
束等もあって他方へ分散した現在墓石五本ある「ダイジャボッチ」
延享元年の地図には二戸ある寛延の地図には家がない欠崩した図面がある
今昔物語によれば赤虫からきたとある(現信州新町津和赤虫に祖先ノ房が移住
した事がわかった。其他の事は不明である竹村伊久治氏談)土口カラ止ル本家ノ婿竹村光氏
(鴨之尾杉本兵作高府町北田大半は後喬などの話あるが不明なりと今昔物語ニアルガ寺モ●
違ッテ誤解ナリ
(43)
字大川
氏神社
祭神 稲荷大神(木のお宮)
金山不動尊(木のお宮)
場所 大日方孝人氏前の一段高い所
信徒 大日方孝人 大日方栄治 大日方直
大日方勇 五名 大日方定治 大日方聖
祭日 二月十一日 当番を廻してお講をする
氏神社 大日方直氏前 個人の拝神 石のお宮
悪疫防除のため祖父が祭った
祭神 津島大神
以上私の実地調査ナリ
(44)
附記 夏和の神楽組
支神組 神楽一之● 幟一対建場所 原山氏の傍
支神 濁沢 上下佐峯三貫地 約廿四戸
祭事係一名
夏和組 神楽一之● 引燈篭一台 音楽隊(日露戦争頃)
幟一対建場所天宝蔵倉脇 待燈篭一基
上夏和 中夏和 和田 約四十二戸
祭事係一人 廻り世話人三名 会計一名
引燈篭一台楽器太鼓二個鼓大小二個 昭和四十五年十月岐阜市
玉姓町山中正信氏ニ売却シタ 其時の祭事係滝沢久近
鴨之尾組 神楽一●● 幟一対建場所 鴨之尾橋詰
鴨之尾川迎大川約廿戸 祭事係一名
(46)
木喰山居上人ノ剛コク仏像
松本支氏ノ尽力ニヨリ発見サレタ
上佐峯オ堂大日如来像 仏像 松本勇喜方仏像
松本清貴方本尊様 松本幸好方本尊様 拍原恒治郎方仏像
穴尾オ堂ノ仏像 中尾新井長勇方仏像
上夏和むかい村二戸は始め一戸であったろうと思はれる
中条村青木のむかい村から移動した通すじは青木むかいから川を渡り志神原にて山道に入り
峯づたいに来ただろうとの節と峯づたいに来て穴屋にて鴨之尾下り川を越して清水尻より
上夏和に来たとの二せつがある
酒井武方の位牌と石橋を調べたら私方より古いかどうかわかるだろう
(47)
松代藩堂宮改帳 (写)
夏和村
大破いたし候地斗一、地蔵堂 清右ェ門
無住 一、弥陀堂 長三間横二間中横二分 源太郎(志神松本ノ祖)
無住 一、地蔵堂 長三分横二分 杢之丞
無住 一、地蔵堂 長三分横二分 弥次右ェ門(明吉ノ祖)
無住 一、薬師堂 長三分横二分 源助
一、地蔵堂 長三分横二分 惣右エ門 勘九郎(保一ノ祖)
〆六堂
森有 一、ゆや権現 忠右ェ門 南光院(大日方孝人ノ祖)
宮有 一、金山不動 忠右ェ門 南光院( 同 )
地斗 一、十二氏神 次郎右ェ門(中夏和澄家)
有森 一、権現 惣左右ヱ門 三郎右ェ門
(48)
有森 一、十二氏神 次左ェ門
有森 一、十二氏神 善佐ェ門
有森 一、十二氏神 弥次ェ門 明吉ノ祖
有森 一、志ん明氏神 次郎右エ門 次兵衛
有森 一、十二氏神 源七郎 次郎兵エ
有森 一、大明神 与右ェ門(松本菊雄ノ祖)
〆十一社
元禄十年丑●二月
夏和村 肝煎 彦右ェ門(和田大平祖)
組頭 次右ェ門
同断 角兵ヱ
長百姓 惣佐ェ門
惣百姓
(49)
大日如来像記
弘法大師信濃三十三番観世音巡歴ノ当時三十一番伊織村
廣福寺ニ放テ佐留之節当家七代榊原六郎右ェ門懇願ニ及ビ
大日如来尊像ヲ御作依テ御堂ヲ伊織村稗田里ニ建立シ
崇拝セシト云フ然逢明治十四年九月十日夏和村ノ懇望ニヨリ右尊
體ヲ寄附致し夏和村御堂に御移シ奉ル
寄附人
新井典惣治
夏和村世話人
松本庄八 (松本尊明祖父)
山中定右エ門 (山中保一ノ祖)
昭和四十五年二月一日写ス(松本菊雄
(49-1)
雑件の部
(50)
古文書摘詠(写)
案内手引書
柳弘法大師遍照金剛ハ宝亀五年讃刈多度郡御誕生在聰
明●智神通不思議ノ御功徳ニヨリ唐土天笠ノ霊場をわが
日の本に移したまひ普く康生済度し御利益ハ今御本跡にのこして
イチ著しよた西国三十三所なるハ往昔人生六十五代花山院皇帝
のみきりに御功徳深く御信仰在し御位をのがれさせたまひ雉髪染衣
の身とならせたまひ法の名人覚法王と申奉しとかやあるときみほとけの
霊により二月十七日奈良山を初として六月朔日迠に美濃の国谷汲
うち納為ふ西国のゆゑよしなり猶順礼拝来の功徳廣大
なる事ことゝくありがたくおもい爰に更級郡大原の御駒込伴
兵土定知なるもの四国八十八ヶ所を順禮して大師の喜瑞を
蒙り眼病平快したる事を朝なにおもひタナに御恩を忘れす
(51)
かゝる難有事を此国の老若女子の足よわき輩に利益をいた
だかせ無病息災にして冨貴繁昌ならしめんと再び四国へ來詣し
八十八ヶ所の御土を背おひ来り当国多山霊場を見立かの御土を納め
新四国札所とせん事を発願し六ヶ年の苦行なりて今年
文政十亥夏成就しぬ●偏に大師の感神力仏神の加護なりと
定知優姿基の喜悦不浅首を地にたれてカツコウし順禮の道筋
又ハ川と谷々の事まても記し札所の詠歌を諸君子に与ひ來詣の人と
巳をつらひなからしめん事を発して案内手引書と題し諸方住心の人々に
ひろむ嗚呼寿山ならひに高し郭有道が讃すといへども九年ら
一巳見るものを㐂の志しを起して日々に來詣し子孫栄久七難即
滅亡福即生二世安楽を祈り給へといふ事志か禮
天台沙門
仁科大町道心坊端明誌
(52)
校場取次信州更級郡イナリ山 閑々窓元彦
同 補助 同 雪耕舎綿人
箏● 同 清●下素琴
○四国 阿劦霊山寺移 是ヨリ昌福寺二丁
文珠菩薩 弘法大師 一番 更級郡大原●平駒込堂
奥院久磨大明神三ッ池ト云 大師御●想施薬出ル
いく●も山海●●堂・・・・
・・・のひちり・・・・乃三川池
(53)
阿劦󠄀極來寺移
釈迦如来
感世音菩薩 二番 大原昌福寺 一丁巳き三十三●●札所アリ
弘法大師 別堂石仏 是ヨリ穂刈ヘ二十丁
みちひろきをしへ昌リ小福をへる
●てらふと●御●をらの里
阿弥陀如来 阿●金泉寺移
弘法大師 三省水内郡穂刈安光寺
別堂石仏 是ヨリ新町ヘ十丁
うき雲のこの世の穂刈のちの世も
安き光のてらぞたのしき
(54)
中程略ス
以下小川村関係ナルモ細部田
秩天十番 水内郡小根山 日影薬師堂
三十一番 山秋弥陀堂
三十二番 小根山稲荷 光明庵 山秋ヨリ十丁
三十三番 小根山町 地蔵堂 糖塚ト云大山アリ薬師堂十丁
三十半田 沢入薬師堂
三十四番 大安場村 全治庵 沢入ヨリ手道坂
二番 東戸谷村 禅林庵
弘法大師御作 吉川村 法蔵禅寺
諏方大明神 西掛所 澤埜宮 現今小川神社 北地区
二十一番 高善寺
六十八番 本山天台宗社僧右同断
(55)
秩父十一番 妙智庵 白山ヨリ十四丁
ヨシカリヨリ四丁
三峯権現御掛所 高戸谷 神六村アリ
西掛所 神六村薬師堂 ホヤヨリ十五丁祝今乃峯神社
三十五番 瀬戸川横巻堂 神六ヨリ十五丁
三十六番 同所 新月堂
両掛所 曲瀬弥陀堂 セト川ヨリ八丁
三十七番 北尾観音堂 コセヨリ十五丁
三十八番 中在家村 地屋堂 北尾ヨリ八丁
三十九番 中牧弥陀堂 中在家ヨリ十五丁
四十番 高山寺村 高山寺 中牧ヨリ十五丁
四十一番 田中村 薬師堂 高山寺ヨリ十丁
四十二番 椿峯 西照寺 田中ヨリ五丁
四十三番 和佐尾味豆村薬師堂 ツベ五年ヨリ十五丁
(56)
西国三番 薬師堂 本村ヨリ十丁坂アリ
西国四番 上平不動院 ワサ尾ヨリ東大●越近道アリ廿丁
十三番 花尾和田 薬師堂 上ナラ井ヨリ十八丁
六十四番 セ戸川成就村 薬師堂 上ノヨリ十丁
六十五番 成就村 地蔵堂 ●下清水出ルセト川ヨリ十丁
六十六番 上野 如智庵 モシ内ヨリ三丁
六十七番 竹生村 薬師堂 高府上町現在公民館ノ地上ノヨリ八丁
土州吉祥寺移
釈迦如来 弘法大師 六十三番 上野村 明松寺
七堂がらんアリ 和田ヨリ二十丁
(57)
讃劦琴彈八幡移
●尊 弘法大師 六十八番 竹生金剛寺 薬師堂ヨリ七丁
すなをなる竹に生まるゝうぐひすも
みな法花経をよむとてきけ
(注)字寺向ニタル廣大ナ山林ノ中央ニ八幡宮ノ石ノ祠アリ記念木アリ
通称八幡山ト云フ 高府八幡社小根山小川神社がない
近江大津三井寺移
如意輪観世音
弘法大師 十四番 夏和村 宝善院 金剛寺ヨリ十二丁
風そよぐ夏和の里のすかしよさ
(58)
宝善院にすみのぼる月
(注)小川徳治方 西側ニゴマ堂アリテ信仰ノ中心室デアッタ
八十八番牧ノ島善光寺迠アルガ略ス
手引草連絵図施主人
宝誉華経智勇居士 父俗名駒込 伊兵栄
恵誉性憶智貞大姉 同人妻 いち
(59)
水内郡夏和村 松本弥治右ェ門
和田杉本勇喜氏方祖
水内郡夏和村 松本勇右ェ門
松本史氏祖
注 四国西国御土奉納者及協力者施主人等松代水門長野須坂
佐久仁科四ヶ域埴科等四百五十八人記名アルガ略ス
弘法大師ノ日南宅大師偏照金剛は天昭大神天昭皇大神宮
と同体なるびゆへに常に南毛大師偏照金剛くとなへ八十八ヶ所へ
來詣をいたし御信心をともからへ現世の利益をあたへ給ふとの御誓願
なりかるがゆへにしんじんいたすべし
文政十亥年 信州更科郡大原村
発願人 駒込定知 花押
(59-1)
北地区神楽聞の注院落書
(60)
支神下原へ花尾沢から瑞を引いた話
明治初年頃支神下原へ水をひいたとの話が残っておる成程ハラより濁沢道は
平らに出来ており佐峯数個所外山東西にも平らな趾がある
昔と沢の深さも大へん変わって居るだろう
松本静馬氏の談によれば道路そいに水路の趾が久しくほった所があった
又原には鳥々見セギ、タメ池等の畑名が残っておる宮川氏の屋敷下が難
ユ事だっただろうとの話もあった農地開放迄は奈良井、須坂の方の所有地もあった
土地の崩壊ヶ所も所々にあり殊に外山は軟弱な土質にてくり返されただろう
麦食世代としては米の希望はよくわかるが主開放時代としては思ひきった計
画である
新井真氏の話 梶尾沢と薬師沢ヲ合セテヒキ「水オトシ」「堤下」宮川氏附近ニ「トヨツミ」等ノ
地名ガアル
推定凡二十丁餘の水路を作りし大事業であるから松代藩の指導
もあったろう又途中小沢の入る所水もれで下に田の出来る所もあったろうオクの吉●氏は持畦から婚で儀父
がキセイ者となったとの話である古文書がないから不明なるが元左右ヱ門は大世話人であろう
原には持ち分が大へんあったようだ
(61)
カヅニの話
夏和の耕地は大方傾斜地であるため耕土の流失を防ぎ併せて早害の
日除けになるので●金作物として畑の間作に楮を栽培した其起因は
詳でないが文政二年松代藩主が楮苗一万五千余を領内に頒植した記錄がある
大小豆の収穫も終り楮の落葉した後集荷する
三尺の長さに押しきり直径二尺五寸位の束としてマクジで結びて準備する
大方の家には台所に釜ダナがあって大釜をすえ共有のコシキと称する
丈五尺位の蒸し桶をかぶせて家主は夜中火たきをした適当の時期
ニ大麻縄でコシキをひき上げ総動員で暖なうちに皮をむき本丈の
ものをオモテと云い細い枝棒をウラと云って結び合せてカズカケにかけて
乾し仲買人に売って収入とした日本紙(コバン)の原料である
時代の遷化と生活様式のかわりで採集の不利等あり昔の語り
草となった
(62)
松代 午札騒動
原因 1、維新の際薩長土等が軍資金の為二朱金を多く贋造
して行使したチヤラ金と称す人民嫌忌す
2、松代藩は負債多額のためチヤラ金に代る不捵藩紙幣多
量を発行したがチヤラ金回収少なく政府紙幣を出す回収を
迫られた
3、金銭貸付業をなす商法社を作ったその頭取大谷幸蔵に藩紙
弊を造らせその席に元資金引当の手形を発行し払込額宛
年々消却する事として手形を貸付に使用した
4、藩紙幣を手形共政府紙幣と同一価格に通用させ様としたが
次第に価格を失ひ政府紙幣に対し二割五分引にて使用される
様になったので人民の損害は大きかった
5、産物改会所が設立され領内産物生糸繭麻木綿紙煙草
(63)
菜種等の粗製乱造を防ぎ販路を擴張し会所の定めた
價格により製造人より買収藩は御用商人(仲買人)に専買
して販路を擴張する制であった之れにより藩は利益を得て
居た御用商人は亦利益を大きくしたので人民は反感をもった
結局
イ チヤラ金の行使者をこらしめる事
ロ 産物改会所商社の破滅を計る事
ハ 大谷幸蔵の跋扈を抑制する事
ニ 藩が政府の信用を行はせ速に藩礼を回収させる事
6、明治二年は凶作で物價騰貴して困難した
7、十一月本年の貢祖改納になる時價十円に対して籾五斗俵四俵
六分に当るを以て藩札又は商社手形なる時は四俵四分の三割
引三俵五分なるを以て右同様の紙幣手形にて上納すべく布
(64)
達した高野権來事東京より帰り不可として改めて二割
五分引籾四俵半にて布達
8、十月十七日上田藩領内人民商社改専騒動松本藩領内
麻績組等の人民騒動の刺激あり松代藩なんぞと反乱
明治三年十一月
A 廿六日夜水内郡山中筋の一揆は笹平に集合酒造家にて飲食
犀川を渡り村山山布施下平十二青池有旅中山の人民加
はり五千人餘松代城下に進入したが他の一揆により解決後で
藩も実力を以て防ぎ退却した
B 水内郡小川附近の一揆は数千人夏和産物方元右ヱ門と虎三
郎宅焼拂萩野の酒造家にて飲食 分れて一手は鹿谷
に入り一手は新町に押寄せ産物方小沢屋を初め数軒乱
暴上篠村質屋にて飲食外一軒に乱暴源眞寺に松代
役人滞在を聞き捜査久米路橋を渡り吉原竹房塩本
(65)
を加へ二手となり一手は境新田より赤田へ入り酒屋にて飲食一手は
田野口村の酒屋小林田鶴助方で飲食酒造家小林斉太の全
建物を焼拂赤田の一手と合して篠之井に出たが今井原等の自
己園上田領民の自己団と衝突引返し解散す
鹿谷に入りし一隊は鹿谷橋木日名の人民合せ川口村の産物掛を
こらしめんとしたが川口と其上で渡船の網を切り船を東岸につなぎしかば
渡れず北行大岡村安賀和平梨木の人民和田吐唄の人民と合せて
北行下市場の渡船場で西岸隊と争ひ竹房村の産物掛孫
右ェ門吉原村の掛彦右ェ門等が一揆に加はる事とし里穂刈に
集合五千新町に浸入此時山穂刈明賀曲尾方面の一揆鹿
島坂を越へて入って合隊再び小沢屋に乱入し金銀紙幣販
賈品の麻茶油反物共焼く和泉屋を破毀し新町人に飲
食を出させる中藩の解決を聞き南北に解散
(66)
篠之井から引返した隊は今泉の嘉右エ門の住宅を焼き蟹沢集
子商民之助の家を焼き茶屋をこわした久米路橋を渡る時前記
の新町より小川一揆と合し再び質屋にて飲食小根山に至り店三軒
を焼き拂ひ尚莊野の酒屋をやかんとせしが天明近きを以て分散
家に帰る二十八日曉天なり
三年十二月十六日以来偵察を放ち暴動搜索四年十二月までに拘
引せるもの大百二十餘人その内四百八人を投獄三月二十九日彈正台(司法省)
審理にし二百八十四人を放免百十人を杖七十に十三人を徒三斗より
七斗に主謀上山田村甚右エ門を斬るー五月廿六日
其年祖父権兵栄名主在任中にて藩より出張した役人二名(同心)の用人
祖母は食料係で草餅等の所望もあった父嘉光佑伯父伊之松は
幼少にてオフレ箱の送達をなし向ふの家山中惣九郎と山中伊兵エの家
(66-1)
午札騒動の話
夏和方の大衆は虎三郎氏の指示により八幡社傍より金剛寺山道へ
上り峯道から新町に出た
鬼無里街道を経ヘ夏和ヘ下った大衆は私方家のわき通り
せんざいに机の上へろうそくをたてて控へていた権兵エに対し庄屋でちとさけ
んだ「後から行く」と答へた母の背中にいた山中たまは新兵栄どこだ
との問に「あっち」だと答へていた
新兵エ方では飯をたべたが害はしなかった
虎三郎方では「堂下」の作兵エ(酒造りの頭)が帳面を自宅にかくしておいた
支神元右門方を焼いた大衆は帰ろうとした時何人が土蔵が
あると云った大衆は圡蔵をやいてしまったと支神松本義正氏が
父弥作から聞いた話
(67)
付取調人及付添各村名主の詰所にて順次呼出されて連れ出した
取調人をうしろ手にしてしばり軒先につるし三人もつるした時は屋根が
ギシヽなった暇があれば地元名主は足にあげものをしてくれた主に軽犯罪
で二十叩き五十叩等が多かった萩の久保の大久保源八は発狂して
其後何回も庄屋居たかとやってきたとの事
叩いた棒は割竹に細麻ナワをまいたもので二本あったが私の子供の頃
で失った調書は役人が持ち帰りないが各村名主の経費負担帳
がある
奈良井村 名主友吉 大原村 名主亀吉 小根山村 名主弥作 和佐尾村 名主後右エ門
三水村 名主大作 山穂刈村 名主佐五郎 糸助 伊折村 名主袈裟吉 青木村 名主後右ェ門
下地京原村 名主不明御尋人ナシ 上地京原村名主不明古山村名主作兵エ水内村名主両人
下越道村 名主●之助定吉 上野村 名主源八和助 竹生村 名主清吉 分
(注)久木村と花尾村がないが取調人がなかったのか負担の必要がなかったのか不明
飛脚貸三ヶ所 村役人三人 人足一人 手縄(ナワ)三十筋
(68)
皆済書 今昔物語ヨリ
皆済書とは公租以下村費に至る迠一歳の経費を収受せし証
として十二月廿日名主より交付する領収書なり納税金額は伎割を以て
月々徴収する事例なれば皆済日に至りても差引計策出支するところの
金額は少額に止まると●も月割を怠るものありては容易の事にあらず
東奔西走僅に完納するものあり除夜に至猶納入する事を過ぎる
ものは帰宅年越をなすを許さず空腹のまヽ役元に一夜を明かすもの
ありしとぞ其項目の如何なりしやを皆済書に依て見るに御年貢
●麻御運上流御運上。御領所品小役御給所。高崎丈銀夫給。
舟銀、国役割節木代割、紙役割、名主給割、郡役割、本田高割、本
新田割、人掛割。吉原入上等は経常費目と見らるべく天保年間の社倉
入用引化二三年の分量御用金沼田用水入用嘉永四年の課業残不足
五年分量金割返月割不納利金七年御消失御見舞安政四年大阪
(69)
松治郎一件六年反別入用文久三年穢多割元治二年御高札入用
明治元年人足御用金三年助博高割等は●時の項目と見るを得
べし其金額は高三石餘の所有権にして天保十年には壱両三匁七分
六厘なるもの嘉永二年には壱両二分七匁五ト八厘安政六年には壱両三
三分十三匁四ト六厘慶應三年には五両二分三歩明治元年には十両二分
二年には九両三年には八両二分三米四年には七両三分なり安政より明治
に至り国事多難の際には負●の増大想見すうに足る
本項単純なる記事なりと●当時の財政の一班を窺ふ琴にもと
周なき事を書き添へぬ
(70)
肝煎 名主 今昔物語ヨリ
肝煎は一村行政長にして退役後は長百姓と云ひ後見役たり
組頭なるもの数人あり肝煎の相談役たり又、新候補者たる事
慣例たりと●必ずしも然るにはあらざる如し
而して寛政三年肝煎を改めて名主と云い明治五年名主を戸長
組頭を副長長と称し徳川氏の制度改政は一代名主年番名主
の別ありと●本村は年番名主の制なり
名主人名
年号 役人氏名 家系 年代考 付記
天禄十七年 肝煎庄右エ門 宝永元年
組頭弥五右エ門 元禄十七年ハ紀元二三六四年●
三郎右ェ門 明治三十九年ヨリ二百三年前ナリ
(72)
六郎兵エ
七郎右エ門
二佐右エ門
惣右エ門
宝永四厘年 肝煎治郎右エ門 中村人廃屋 松本貴男の両わきに家があったと云ふ
組頭惣右エ門 元禄十七年改元コクテ宝永元年ト云フ
長百姓庄右エ門
仁佐エ門
三郎右エ門
弥治右エ門
寛延元辰年 肝煎元右エ門
二巳年 〃
三午年 〃
(73)
宝暦元未年 肝煎 元右エ門 社寺奉行大岡忠相死ス
二年 〃
三年 〃
四年 〃 御検地入用高三石八斗 御検地御水帳持主権兵栄肝煎
酒 茶代一分十二匁余 元右ヱ門
組頭弥右ヱ門長百姓惣右ヱ門
五年 〃
六年 〃
七年 〃
八年 〃
九年 〃
十年 肝煎 弥右エ門 明吉ノ祖 徳川家治将軍トナル
十一年 〃
十二年 肝煎 庄七 兵吾ノ祖
十三年 〃
(74)
明治元年 肝煎 庄七 兵吾ノ祖
二年 〃 長右エ門
三年 〃 又治郎 三郎治祖 四文銭ヲ鋳ル
四年 〃 〃 〃
五年 〃 〃 〃 組頭 庄七
長百姓 弥右エ門
六年 〃 甚右エ門 貢ノ祖
七年 〃 加藤眞淵歿ス
八年 〃 江戸大犬田沼意次老中トナル
安永元辰年
二年 肝煎 又治郎
三年 〃 〃
四年 名主 〃
五年 〃 〃
(75)
安永六年 名主 又治郎
七年 〃 〃
八年 〃 久右エ門 政七ノ祖
九年 〃 勘九郎 金平ノ祖
天明元丑年
二年 〃 又治郎 三郎治祖
三年 〃
四年 〃
五年 組頭弥惣エ門
●百姓專右エ門
六年 勘九郎 松平定信政治ニ改新令ヲ出ス
家斉将軍トナル天下大●●倹約ヲ令ス
七年 〃 又治郎 京都大火焼失廿一万余戸
八年 〃
寛政元酉年 〃 装飾品ノ奢移ヲ禁ズ